全ては過ぎる、夢のように。
2003年4月23日■坂口安吾が好きだ、岡崎京子と同じくらい。
“焼跡は一面の野草であった。
「戦争中は可愛がってあげたから、今度はうんと困らしてあげるわね」
「いよいよ浮気を始めるのかね」
「もう戦争がなくなったから、私がバクダンになるほかに手がないのよ」
「原子バクダンか」
「五百ポンドくらいの小型よ」
「ふむ、さすがに己れを知っている」
野村は苦笑した。私は彼と密着して焼野の草の熱気の中に立っていることを歴史の中のできごとのように感じていた。これも思い出になるだろう。全ては過ぎる。夢のように。何物をも捉えることはできないのだ。私自身も思えばただ私の影に過ぎないのだと思った。私たちは早晩別れるであろう。私はそれを悲しいこととも思わなかった。私たちが動くと、私たちの影が動く。どうして、みんな陳腐なのだろう、この影のように!私はなぜだかひどく影が憎くなって、胸がはりさけるようだった。”
好きなラストシーンのひとつ。終戦直後の時期に書かれた作品。
きっと当時には、もっとリアルな光景として迫ってくるものがあったのだろうけど、それとは別に、僕から見ても理解できる「普遍的な虚無感」が描かれていると思う。
僕が「終戦のリアル」を知らないからこそ、逆にその部分がクローズアップして見えてきているのかもしれない。ただ、日本がなんとなく戦争に突入してしまったわりに、比較的整然と敗戦を迎えることができたのは事実だし、そんな状況の中でなら、こんな少し甘ったれたようなささやきや思いが生まれてくるのも、わかる気がする。その中に垣間見える「普遍的な虚無感」と、その処し方が、僕にはとても美しく見える。
”バクダットでもバルクでも、命はつきる
酒が甘かろうと苦かろうと、杯は満ちる
たのしむがいい、おれと君と立ち去ってからも
月は無限に朔望をかけめぐる!”
これは11世紀のペルシャの著名な詩人の四行詩。坂口安吾と同じような虚無感の抱き方を感じる点で、僕はこの詩人が大好き。
この時代のペルシャは、セルジュク朝の全盛期で、今のイランやイラクにあたるエリアの歴史の中では比較的平穏な時代だった。けれど、砂漠地帯には今の感覚じゃ完全にテロリストな暗殺教団が成長していたり、初期の十字軍遠征が開始されていたりして、それなりに不穏な時代だった。
ちなみにこの作者、これだけ読むと投げやりで酔って遊んでばっかのダメ人間と見まごうばかりだけど、ホントは、ペルシャ語とアラビア語を自在に操り数学者や天文学者としても高名だった人物。
とりとめもなくなってきたけれど、「アホでマヌケ」とマイケル ムーアに呼ばれているようなおっさん達は、こういう感覚逆立ちしたって理解できないんだろうな、と思う。
坂口安吾とこの詩人には、自分達がたまたま、その時代、そこに居合わせた、その中でしか生きられない人間だという自覚がある。そして世界は続くけれど、そこに必然の流れなんてないということを知っている。
ネオコンとか言われているおっさん達は、きっとそういうことを知らない・感じない。彼らは世界が必然の流れを持つと思っているし、その先には千年王国なり2000年も前に死んだあんちゃんの再臨とかがある、というドグマをかかえている(に違いあんめえ)。なにか確固たるものに近づく過程が、彼らにとっての歴史なのだろう。月は無限に朔望を駆け巡ったりしない。
なんとなく、19世紀的な人たちなのかな、と思う。アルジャーノンには花束を、彼らにはポストモダン爆弾を。
“焼跡は一面の野草であった。
「戦争中は可愛がってあげたから、今度はうんと困らしてあげるわね」
「いよいよ浮気を始めるのかね」
「もう戦争がなくなったから、私がバクダンになるほかに手がないのよ」
「原子バクダンか」
「五百ポンドくらいの小型よ」
「ふむ、さすがに己れを知っている」
野村は苦笑した。私は彼と密着して焼野の草の熱気の中に立っていることを歴史の中のできごとのように感じていた。これも思い出になるだろう。全ては過ぎる。夢のように。何物をも捉えることはできないのだ。私自身も思えばただ私の影に過ぎないのだと思った。私たちは早晩別れるであろう。私はそれを悲しいこととも思わなかった。私たちが動くと、私たちの影が動く。どうして、みんな陳腐なのだろう、この影のように!私はなぜだかひどく影が憎くなって、胸がはりさけるようだった。”
好きなラストシーンのひとつ。終戦直後の時期に書かれた作品。
きっと当時には、もっとリアルな光景として迫ってくるものがあったのだろうけど、それとは別に、僕から見ても理解できる「普遍的な虚無感」が描かれていると思う。
僕が「終戦のリアル」を知らないからこそ、逆にその部分がクローズアップして見えてきているのかもしれない。ただ、日本がなんとなく戦争に突入してしまったわりに、比較的整然と敗戦を迎えることができたのは事実だし、そんな状況の中でなら、こんな少し甘ったれたようなささやきや思いが生まれてくるのも、わかる気がする。その中に垣間見える「普遍的な虚無感」と、その処し方が、僕にはとても美しく見える。
”バクダットでもバルクでも、命はつきる
酒が甘かろうと苦かろうと、杯は満ちる
たのしむがいい、おれと君と立ち去ってからも
月は無限に朔望をかけめぐる!”
これは11世紀のペルシャの著名な詩人の四行詩。坂口安吾と同じような虚無感の抱き方を感じる点で、僕はこの詩人が大好き。
この時代のペルシャは、セルジュク朝の全盛期で、今のイランやイラクにあたるエリアの歴史の中では比較的平穏な時代だった。けれど、砂漠地帯には今の感覚じゃ完全にテロリストな暗殺教団が成長していたり、初期の十字軍遠征が開始されていたりして、それなりに不穏な時代だった。
ちなみにこの作者、これだけ読むと投げやりで酔って遊んでばっかのダメ人間と見まごうばかりだけど、ホントは、ペルシャ語とアラビア語を自在に操り数学者や天文学者としても高名だった人物。
とりとめもなくなってきたけれど、「アホでマヌケ」とマイケル ムーアに呼ばれているようなおっさん達は、こういう感覚逆立ちしたって理解できないんだろうな、と思う。
坂口安吾とこの詩人には、自分達がたまたま、その時代、そこに居合わせた、その中でしか生きられない人間だという自覚がある。そして世界は続くけれど、そこに必然の流れなんてないということを知っている。
ネオコンとか言われているおっさん達は、きっとそういうことを知らない・感じない。彼らは世界が必然の流れを持つと思っているし、その先には千年王国なり2000年も前に死んだあんちゃんの再臨とかがある、というドグマをかかえている(に違いあんめえ)。なにか確固たるものに近づく過程が、彼らにとっての歴史なのだろう。月は無限に朔望を駆け巡ったりしない。
なんとなく、19世紀的な人たちなのかな、と思う。アルジャーノンには花束を、彼らにはポストモダン爆弾を。
コメント