インディビジュアル プロジェクションが読みたい。
2004年5月6日■GW最終日の夜中の26時過ぎから、こうして日記なんか書き始めるのは、確実に「逃げ」である。今日の俺的には。
「無」にも「全部」にも「満足する」にもかかわらず、「わたしはすぐ逃げてしまう時がこわい」のだという。「年齢のないひとつの時代のドン・キホーテ」の「わたし」が。なぜか?これは現実認識の問題なのだ。「すぐ逃げてしまう時」とは、いくつもの重要な情報が凝縮された瞬間を意味している。つまり「わたし」は、それを見過ごしてしまうことが「こわい」。
企業勤めの人間には、一応責任というものがある。ただ会社に対する責任というものを果たすのであれば、それは(少なくとも今の俺にとっては)たいして困難の伴う話ではない。
だけれども、あくまでも自分に対する責任を仮定しそれを果たすためのリソースとして企業を見た場合、違う困難がたち現れる(ようだ、どうやら)。そういうものとの取り組み方なんて、まだ俺は知らない。これは決定的に問題だ。
これから露にされるのは、お仕事社会において自分がいかに甘ちゃんとして働いてきたかかもしれないし、海千山千のおっさんたちに翻弄されてアガクさまかもしれない。まわりに限りなくヒントになるものがない状況では、おそらくさまざまな「シグナル」を見過ごしてしまうことが考えられる。また重要なポイントがはなから見えないことも考えられる。おそろしい。
どこまで行けるか確かめたい、なんて悠長なことを言ってられるのはいつまでだろう。
「無」にも「全部」にも「満足する」にもかかわらず、「わたしはすぐ逃げてしまう時がこわい」のだという。「年齢のないひとつの時代のドン・キホーテ」の「わたし」が。なぜか?これは現実認識の問題なのだ。「すぐ逃げてしまう時」とは、いくつもの重要な情報が凝縮された瞬間を意味している。つまり「わたし」は、それを見過ごしてしまうことが「こわい」。
企業勤めの人間には、一応責任というものがある。ただ会社に対する責任というものを果たすのであれば、それは(少なくとも今の俺にとっては)たいして困難の伴う話ではない。
だけれども、あくまでも自分に対する責任を仮定しそれを果たすためのリソースとして企業を見た場合、違う困難がたち現れる(ようだ、どうやら)。そういうものとの取り組み方なんて、まだ俺は知らない。これは決定的に問題だ。
これから露にされるのは、お仕事社会において自分がいかに甘ちゃんとして働いてきたかかもしれないし、海千山千のおっさんたちに翻弄されてアガクさまかもしれない。まわりに限りなくヒントになるものがない状況では、おそらくさまざまな「シグナル」を見過ごしてしまうことが考えられる。また重要なポイントがはなから見えないことも考えられる。おそろしい。
どこまで行けるか確かめたい、なんて悠長なことを言ってられるのはいつまでだろう。
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